人と地域にあたたかい社会システムを求めて


ホーム>公益事業情報>米谷先生プロフィール

 

第2代会長  米谷 榮二 (こめたに えいじ)


 

 業 績


 大学時代の米谷は非常な勉強家であったと伝えられる。学生時代のノートの一部は京都大学工学部土木工学科資料館に収められており、その勉強ぶりをしのぶことができる。大学卒業と同時に京都帝国大学工学部土木工学科講師に就任、1937年助教授、1956年工学博士取得、同年教授となる。

 日本は、戦前、鉄道網整備に集中的に投資したこともあって戦後も道路整備は進んでおらず、1956年に来日したワトキンス調査団が、その報告書の中で「日本の道路は信じがたい程悪い。工業国にして、これ程完全に道路網を無視した国は日本の他にない」と書いたことは有名。このような状況を反映して、戦前の日本の大学には「鉄道工学」の講座はあっても「交通工学」の講座はなかった。Traffic Engineering の訳語として「交通工学」を用いることが決定されたのも1955年の第3回日本道路会議のことであった。そのような状況の中で、米谷が佐佐木と連名で1958年に発表した自動車交通流に関する追従理論が海外でも高く評価された。同時期米国でもハーマン博士らが同様の追従理論を研究しており、両者の間で交通流研究に関する国際協力の必要性について議論されたことが、1959年の国際運輸交通流理論シンポジウム開催のきっかけであったと伝えられる。同国際シンポジウムは3年ごとに開かれ、1977年の第7回シンポジウムが日本で開催されたときには組織委員長を務めた。交通工学の先駆者であっただけでなく、研究の国際交流の面でも先駆者であった。

 また、教育の面においても、はやくから土木工学における計画の重要性に着目し1959年に日本で初めての「土木計画学」の講座を京都大学で開設した。これは、後の土木学会における土木計画学研究委員会の設立や土木計画学の確立につながるものであった。1960年代に入ると交通工学や道路計画の重要性が一般にも認識されるようになり、1963年京都大学に日本で初めて交通土木工学科が設立されたが、土木工学科の教授であった米谷は、その設立に向けて尽力した。1965年には『交通工学』(国民科学社)を出版、大学のテキストおよび現場の道路技術者の参考書として広く用いられ現在に至っている(2008年第4版出版)。

 実社会での功績も大きく、建設省道路審議会委員、本州四国連絡橋公団管理委員、阪神高速道路公団管理委員、近畿圏整備審議会委員、京都府都市計画地方審議会会長等を歴任した。特に、阪神高速道路の供用に際しては、「都市高速道路は下手すると高架の駐車場になってしまうので、交通を円滑にするよう上手にマネジメントしなければならない。」と、その後の管理体制の礎となるアドバイスを行っている。  学界においては、日本学術会議第五部会員、土木学会副会長、日本都市計画学会理事、日本OR学会理事、日本地域学会副会長等を歴任。長年の功績により、1963年に日本都市計画学会石川賞、1984年(昭和59年)勲二等瑞宝章、1988年(昭和63年)日本土木学会功績賞、1995年(平成7年)日本地域学会功績賞を受賞している。

(文中 敬称略)




ページの先頭へ