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第3代会長  佐佐木 綱 (ささき つな)


 

 業 績


 熊本大学工学部の時代、交通流理論の誕生期であった1958年に「交通流の安定性について(英文)」を米谷教授と連名で発表した。これが有名な「米谷・佐佐木の追従理論」である。佐佐木は、「従来の追従理論では考慮していなかった運転者の反応時間遅れを方程式に取り入れたのがミソ」と語っていたが、当時、ゼネラルモーターズのハーマン博士が同様の研究を進めており、この論文が交通流研究分野における国際交流のきっかけになったという。(米谷栄二の項参照)後年、佐佐木は、「ゼネラルモーターズのハーマン(米国)、英国道路研究所のウォードロップ(英国)、アデレイド大学のポッツ(オーストラリア)等が中心となって第1回国際運輸交通流理論シンポジウムを1959年12月、極寒のデトロイトで開催し、名実ともに国際的に交通流理論の旗揚げを行った。」と記している。

 熊本から京都に戻った佐佐木は、「佐佐木のサは補佐のサである」と語っていたと伝えられるように、恩師米谷をよく補佐して研究室の運営にあたった。1962年工学博士を取得、1966年京都大学工学部教授に就任したが、1960年代後半から佐佐木は都市交通計画、特に需要予測分野に研究の主力をそそぐようになった。「佐佐木のエントロピー法」と呼ばれるOD交通量推計に関する論文が続々と発表されるようになったのは1965年以降である。一方、交通量予測の基礎データとなる交通調査の分野でも新しい考え方をけん引した。そもそも調査対象を自動車とすることは経済成長による保有台数の激増や使用頻度のバラツキという不安定要素を抱え込むが、人は、1人当りの1日交通量あるいは人の総量も安定していることから人を調査対象にすべきとしてパーソントリップ調査を提唱した。やがて1966年、佐佐木の指導により福岡市において日本で初めてのパーソントリップ調査が行われた。

 佐佐木は理論に基づきながらも、現実の諸問題の解決にあたることをよしとしていた。1968年には「都市高速道路網における流入ランプ制御(英文、明神証と連名)」で日本土木学会論文賞を受賞し、その成果は、現在も阪神高速道路で使われている。また1970年に大阪万国博覧会が開かれたが、佐佐木は、その交通計画委員会作業部会の一員として大規模公園内における人の動きの研究を行っている(松井寛と連名)。さらに大阪市内の御堂筋をはじめとする幹線道路の一方通行化に際しても、一方通行が混雑緩和に有効であることを研究で明らかにした(松井寛と連名)。これに基づき、1970年1月から大阪市中心部の幹線道路は一方通行化され、半年後の調査で、交通停滞回数は約4分の1に、事故は約3分の2に減少したことが判明した。

 1970年代に入ると次第に高度成長のひずみが明らかになり、70年代後半には都市部の各地で道路建設反対運動が盛んになっていったが、佐佐木は地域住民の思いの深層や文化を考慮していない全国標準仕様の道路建設手法が原因ではないかと考え、地域の精神的、文化的風土を生かした施設計画や地域計画すなわち風土工学を構想するようになった。その大きなきっかけになったのが、1978年からの新宮川(熊野川)流域における地域振興計画づくりであった。新宮市から委員を委嘱された佐佐木は流域各地をくまなく見て歩き、やがて、古来、熊野詣に参詣する多くの人々が奥深い自然体験の中で心性を見つめ直し絶望を克服してきた熊野こそ日本の精神的母胎と考え、その風土を活かした地域づくりを提唱した。その傍ら、自らが、毎年、多くの知人を誘って熊野奥駆けを実践するとともに、講演やシンポジウム、雑誌コラムなど、あらゆる発言機会をとらえて熊野の地の重要性を説き、これが後に世界遺産登録につながったと言われる。また、酒呑童子の伝説で知られる京都府大江町でも、鬼を核とした地域づくりを提唱し、これに基づき鬼の博物館や世界鬼学会が創設された。当然のことながら、研究テーマは交通流や交通予測から風土へ、研究手法も数理解析からユング心理学や密教曼荼羅を取り入れた風土分析に、大きく転換して行った。そうした風土分析の最初の論文が1982年の「熊野地域の計画〜熊野浄土の現代的意義を求めて〜」(土木計画学研究講演集No4)であるが、「フロー図では表せないものを金剛界曼荼羅で表現する」と佐佐木が説明したとき会場は複雑な笑いに包まれたという。当初、佐佐木は、こうした学会の厳しい評価をよく認識していたため、「風土分析のような危ないものは若い人にはまかせられない」と自分の研究室の助手や大学院生に風土分析の研究を勧めなかったが、この分野に乗り出す研究者が続々と現れ、やがて1994年には風土分析研究の一つの区切りとして、風土分析国際ワークショップを熊本県小国町で開催した。

 1994年に京都大学を定年で退官し、続いて近畿大学教授に就任したが、この時、自らの研究室を風土工学研究室と宣言している。

(文中 敬称略)




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